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思い出

三宅 善和

(1) サラリーマン時代
 私は会社在職中、ふとした経緯で公認会計士第二次試験(昭和26年度)を受験することになった。その時の動機としては高邁な理想がある訳でもなく、入社後経理部門で当時3年は経過していたので、受験勉強によって会計に関するまとまった知識を得たい気持ちと、今の会社に万一のことがあればその安全弁という実利主義が当時の私の気構えの中にあったと思われる。
 その年の二次試験は、発足後第二回目ということでもあり試験対策用の参考書等は全く見当たらなかったので、私は公表される当時の試験委員(神戸大の山下勝治先生等)の著書の整理、又先生方の講習会があれば欠かさず参加した。試験の結果は幸運も手伝って見事合格、その後合格率が約8%という発表があって驚いた。
 昭和26年度は、私の会社でも証取監査が実施され、昭和32年の「正規の監査」実施迄の移行措置として「制度監査」が始まった。
 監査初年度は、会計制度監査の外、現金残高だけの監査証明が発行され、その後毎年一勘定科目が追加され、最後は売上高も証明の対象になったと記憶している。
 当時は証取監査発足間もない頃で、監査側にも「監査基準」の設定もなく、一方会社側でも受入体制は整わず、不安定な空気が漂っていた。
 この間私は、証取監査の窓口となり有価証券報告書は勿論、増資や社債発行時には有価証券届出書、目論見書も作成して上京し、旧大蔵省理財課に足を運んだ思い出がある。
 さて三次試験であるが、その受験要件として実務補習が義務付けられていた。当時は今日のように実務補習機関もなかったので、知人の紹介で指導公認会計士石津徳七先生(神戸市)の許に入門した。履修時間の規定上の制約もあって、その年一年間は毎日曜日(当時は日曜以外に休日はなかった)、同期生約八名と共に先生のご自宅で朝から夕方まで缶詰めで勉強したが、先生には毎回ご臨席頂き、その厳格な御指導は誠に有難い思い出となった。
 三次試験では、試験科目「監査実務」はその経験のない私にとって大きな負担となり、実務専門の先生方(例.神馬先生)や月刊雑誌「監査」を読み漁る等相当の努力を重ねて昭和30年度に漸く合格した位の記憶しか残っていない。
 かくて三次試験に合格したものの昭和30年代の世相は、中東の巨大油田の開発が成功し、日本は割安に大量の石油輸入が可能となり、この石油が第二次大戦後我国経済高度成長の最大の物質的基盤となった。この結果戦前、又は敗戦直後とは全く異なった生活風景―冷蔵庫、テレビ、洗濯機等、憧れの文明の利器が容易に手に入り、又食料品、衣料品の不足もなくなった―を生み出し、東京オリンピックの開催東海道新幹線の開通等時代は激変した。
 この影響により私の会社生活も忙しい毎日を送っていたが、この間経理責任者の一員となり税務も担当して国税調査官との折衝も職責に加わったので益々多忙となり、又一方転職についてはそれ相応の好機もないままに時は流れて十年余は経過し、昭和40年代に突入していた。
 
(2) サラリーマンから会計士へ
 私が、会計士への転職を決意したのは齢既に五十路を越え、人生の転機にさしかかっていた頃のことである。長年在籍した神戸製鋼は、当時鉄鋼大手五社の一角を占め、成長路線を堅実に歩んでいた。従って一介の社員であった私もその面目を保つ程度相応の待遇をうけ、又下積みながら日本経済を支える基幹産業の一員としてのプライドを持ち合わせていた。
 然し私には、益々成長が予想される会計士業界への強い憧れがあり、今でいう新世紀のテーマ「個人の時代」を意識していた訳ではないが心密かに転職の機会を窺っていた。 思えばこの時以前に私が転職を思い止まった一つの出来事があった。
 即ち昭和30年度第三次試験に合格間もない頃転職を思い立ち実行に移ろうかと考えたが、内心一抹の不安もあったので、母校横濱高商で「ゼミ」でもお世話になった恩師黒澤教授を横濱鶴見のご自宅に訪ね、この時期に於ての転職の可否についてご教示を仰ぐことにした。この時教授は、「(当時は)戦後日本の監査制度が発足間もない頃の事でもあり、今少し歳月が経ち同制度の安定を見極めてからの事にしてはどうか―折角上場会社(当時尼崎製鉄KK、後に合併してKK神戸製鋼所)に就職し、生活も安定しているのだから」との御意見を承ったので、この問題は当分待機ということで一先ず沙汰止みとなった経緯がある。
 黒澤教授との関連で、一言すれば戦後間もなく発足した当時の経済安定本部が一般的且つ基本的な企業会計の基準として「企業会計原則」(中間報告)を公表し(昭和24年)、これを受けて会計学会は勿論実業界もこれに深い関心を持ち、この関係の講習会も全国主要都市で屡々開催されていた。黒澤教授は、当時すでに日本会計学界の重鎮として活躍され、恐らく同「原則」起草のリーダーだったのではないかと推測している。
 さていよいよ転職についての本論になるが、この様ないきさつで三次試験合格直後の転職は一応見送っていたが、その後会社生活も十数年の長きに及び(待機期間としては少々長すぎたが)、昭和40年代前半には会社の合併、東京転勤による3年間の単身赴任等々私の身辺にも少なかざる動きがあった。
 そして40年代後半に入り、商法監査も近い将来実施の運びとなったので、正に好機到来との意気込みで遂に意を決して神戸製鋼を退社し未知の世界に突入した。当時は、まだ五十路を超えて間もない頃で、体力気力は旺盛、転職直後の経済的問題もこの時はあまり意に介することなく、妻もさして不安の意を表すことがなかったので思い切ってその決意を断行した。勿論当時の住居は尼崎の借家住いであり、妻と二児(中学と高校)の家族構成であった。
 さて転職して会計士を開業してもクライアントの確保という大きな課題が私を待ち受けていた。幸いに当時は社会情勢も今日程緊迫化していなかったので、監査法人で修業2、3年にしてサラリーマン時代の鉄鋼業界とか学校関係の紹介でメーカー、商社、その他関連する企業数社より大小区々の契約を確保する事が出来た。
 かくて私の会計士業は、商法監査を主体とする個人事務所経営の形で、爾後数年に及び一応初志を貫いたことになるが、この間特筆すべき事柄として、縁あってさる大手監査法人より業務上大変な御支援を戴いたことがあげられる。即ち応援要員の派遣―この結果年間予定日数の完全消化。今一つ、開業後数年間の経常的な問題についての処理に始まり、最近十年余の諸問題、特に会計ビックバン関連問題の要所要所についての適切なアドバイスには感謝している。かかる有難い御支援が、上述の如く開業当初より昨今高齢のため最終の会計監査人辞任に至る迄の長期間にわたり継続され、その結果、大過なく今日に至ったことは誠に有難くこの場をお借りして厚く御礼申し上げたい。