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リレー随筆 第3回

質への逃避

松本勝幸

 
 私はその人の本名は知りません。ただ、彼が連載していた雑誌のコラムには“堂下 創介”という謎かけのようなペンネームが記されておりました。コラムには、相場の世界で生きている者の喜怒哀楽がみごとに描写されており、日本国債市場の参加者の一員であった私も毎月欠かさず読んでおりました。
 彼は「相場は神の領域である。儲けることも損することも所詮お釈迦様の掌上の孫悟空
と同じである。」と述べておられました。報道番組において、マーケットアナリストという
怪しげな肩書きを堂々と振りかざし、したり顔で市場分析を行う輩の態度に比べ彼の達観
した姿勢は私の憧れでありました。しかし、彼も最初から謙虚であったわけではなく、昔
の彼は“その強引な手口とその不遜な態度”で非常に有名でありました。彼はあることを
きっかけとして相場に対して謙虚な姿勢で臨むようになったのです。
 1987年10月19日月曜日ニューヨーク株式市場が過去最大の暴落劇を演じました。有名
なブラックマンデーです。この影響はみなさんご存知の通り世界的な株価暴落を招き当然
東京市場も巻き込まれました。当時のトレーダー間の共通の認識は、株安となった場合は債券安になるというものでした。しかし、ブラックマンデーに際してはローカルマーケッ
トのトレーダー間の経験則は全く役に立たず、教科書通りの“質への逃避”いわゆるフラ
イ・トゥ・クオリティーが見事に発生しました。債券相場は暴騰し債券先物価格は寄付き
からストップ高に張り付きました。可哀相な売り持ちのトレーダーは先物を買い戻すこと
すら出来ず朝一から十億円単位で含み損を抱え、一日中何も出来ないまま債券先物の入力画面の前で身悶えていたとのことです。
 彼はその時を振り返り次のように述べております。『小説家の高橋三千綱氏は「人間が一生のうちに知ることが出来るものは一つか二つしかないはずである。なぜならば人間が物事を本当に知る為には、指の一本や二本がへし折られる程の苦痛を伴うからである。」と語っている。今回、私は全身から脂汗を流し、髪の毛を掻き毟り、爪を深く噛み過ぎた為に爪と指先の間から血を流し、画面に向かって意味不明な雄叫びを上げ、一日中悶え苦しん だことで相場というものがようやく分かった。』この経験こそが彼の相場に対する姿勢を謙虚にさせたとのことです。

最近の相場を見るとまさに歴史は繰り返していると言わざるを得ません。当時も米国は大
騒音(大赤字)を世界中にばら撒きながら、アスベストの薄い板の上で大騒ぎしながらみ
んなで河内音頭を踊っておりました。そんなことをしていたら、いずれ底が抜けて墜ちて
いくのは当り前です。現在も当時と同様、株が暴落し債券、貴金属、一部の商品が暴騰す
る“質への逃避”が起こっています。このまま米国を中心として信用収縮が発生し更に“質
への逃避”が起こるのか、再度信用創造が行われていくのかは、これこそ神のみぞ知る領域であると思います。

東京市場の著名なトレーダーを悟りの世界へ導いた“質への逃避”はどうも相場だけの世
界ではなさそうです。北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行破綻に端を発した日本のクレジットクランチも、市中銀行が“質への逃避”を行い取引先を選別したことから生じていま
す。また、監査業界でも「監査難民」と称される企業が生じてくるのは、監査人側の“質
への逃避”という面は否定できないと思います。一方でクレジットクランチに際しては取
引先側からも銀行に対して“質への逃避”が行われましたし、監査業界でも企業側から“質への逃避”が行われるかもしれません。ただ、“質への逃避”は市場が非常に混乱し、リスク評価を適切に行えない場合に一時的な避難行動として行われることが多く合理的な行動とは言えないのも事実です。

非合理的な行動が生じた場合、そこには大きなビジネスチャンスが当然生まれます。言え
ることは大混乱から生じる“質への逃避”は、多くの場合偏った方向へオーバーシュート
しており、時間が経つと、まさに津波が去っていく様にあるべき場所に戻っていこうとし
ます(当然、現実の津波と同様、去った後には関係者の累々たる屍と残骸がころがってい
ます)。ごく一部の人は“他人様の前世から将来の姿まで”見えるそうですが、普通の人間
は将来のことは全く分かりません。ただ“質への逃避”の後に発生する“あるべき場所に
戻っていく動き”はかなりの確立で予測でき、低いリスクで高いリターンを得ることが出
来ます。諸先輩からは、「相場の世界と会計・監査の世界を一緒にするなんてとんでもな
い!」とのお叱りの言葉を頂きそうですが、「監査難民」をめぐる議論の中にも同様な事象
が含まれているかも知れません。
 天佑は希にしかおこりません。一方“質への逃避”も希にしか起こりません。もしかす
ると“質への逃避”はどんな事象が生じても、常に冷静な判断・評価が出来る人間にだけ
与えて下さる神様のご褒美なのかも知れません。