特集

プロフェッショナルとは?

〜『プロフェッショナル原論(波頭 亮 著)』、
『市民と会計(熊野実夫 著)』を読んで〜

会報部

 
1.はじめに
 私が公認会計士業界に入った昭和61年当時は、まだ、「監査の職人」と言えるような先輩会計士から多くのことを学んだ。それは、「現場」を観る力であり、「人」とのコミュニケーションから嗅ぎ取る能力であり、数字から見る論理的推理力などであった。今日の公認会計士にもそのような「職人」がまだ多く存在すると思われるが、近年の「厳格監査」の流れから監査の現場は、PC画面で監査手続をこなすのに追われ、「職人の眼力」を発揮するに至らないことが多くなっているのではないだろうか…?
 訴訟や検査を前提とした調書作成に最重点が置かれ、ともすれば形式主義に陥ってしまう危険性を孕んだ現在の公認会計士監査に従事する公認会計士は、今尚、「プロフェッショナル」の範疇に含め置いてもらえる職業でありえるのか…?「プロフェッショナル」であるためには、何が必要なのか…?
 今から三年前、「プロフェッショナル原論」(波頭 亮 著)という著書に出会い、その答えを垣間見た。そして最近、公認会計士であられた故熊野実夫先生が1972年に執筆された「市民と会計」(岡部書房)を公認会計士三馬忠夫先生が復刻出版され、その内容を拝読する中で、波頭氏の説く「プロフェッショナル」についての認識との共通点が多くあったことから、波頭氏の「プロフェッショナル原論」の要約記述を中心にしながら、故熊野実夫先生の「市民と会計」に記述されている内容織り交ぜてご紹介したい。
 
2.プロフェッショナルとは?
  波頭氏は、プロフェッショナルについて、「高度な知識と技術によってクライアントの依頼事項を適えるインディペンデントな職業」と定義しながらも、「…しかし、これはプロフェッショナルという職業の形態上の要件であり、プロフェッショナルの本質を理解するためには、その使命や規範についても理解しなければならない。…」として、その本質の理解のために「プロフェッショナル」という言葉の起源から説明を加えている。
  「…プロフェッショナルという概念は、紀元前五世紀に古代ギリシアで成立した。プロフェッショナル第1号は、「医学の父」と称され、「ヒポクラテスの誓い」という医者の心得を打ち立てたヒポクラテスであろう。プロフェッショナル「Professional」という言葉は、「Profess」という「宣誓」を意味する言葉から来ている。つまり、プロフェッショナルとは、その職業に就くに際して神に誓いを立てなければならないほどの厳しい職業なのである。
 何を神に誓うのかと言うと、社会に貢献し、公益に寄与することを目的として働くこと、そしてその目的を果たすために定められているプロフェッショナルの掟を守ることである。実はプロフェッショナルのプロフェッショナルたる本質は、神に誓う自らの使命であり、わが身に課す厳しい掟にある。プロフェッショナルは、公益に奉仕するという使命感と掟を守る自律心こそが重要なのである。
 一般の人々が働く動機は金を儲けることであったり、出世や権力を手にすることにある場合がほとんどであろう。一方、プロフェッショナルは自分の利得のために働くのであってはならない。会社や家族のためですらあってはならない。会社の発展のため滅私奉公の気構えで尽力するとか、妻子のためには休日返上で仕事に精を出すなどというのは、一般の勤め人ならば立派な勤労姿勢だと言えようが、プロフェッショナルとしての動機からは外れているのだ。正当なプロフェッショナルであるためには、世のため人のため、即ち公益に寄与することを唯一の動機として働かなければならないのである。」とし、我々、公認会計士が「プロフェッショナル」であるためには、他の職業とは違い、「社会への貢献、公益への寄与を唯一の動機」とすることの必要性を説いている。
 
3.プロフェッショナルの掟
 プロフェッショナリズムの本質は公益への奉仕に対する使命感と良い仕事をするための行動規範や価値基準の中にある。波頭氏は、プロフェッショナルとしての規範と価値基準を5つの掟として挙げている。
(1)クライアント インタレスト ファースト(顧客利益第一)…全てはクライアントのために
 プロフェッショナルが仕事をするに際しては、クライアントのインタレスト(利益)に貢献し得てこそ、その仕事の価値が認められるということである。
 
(2)アウトプット オリエンティッド(成果指向)…結果が全て
 プロフェッショナルは、仕事を引き受けたからにはどんなことがあっても必ず結果を出さなければならない。
 
(3)クオリティ コンシャス(品質追求)…本気で最高を目指す
 プロフェッショナルは仕事のアウトプットにおいて、レベルの高さと手法において最高水準の品質を追求しなければならない。
 
(4)ヴァリュー ベース(価値主義)…コストは問わない
 ヴァリュー ベースとは、仕事をするに際してはヴァリューを最大化することを最優先として行動すべしという規範である。
 
(5)センス オブ オーナーシップ(全権意識)…全て決め、全てやり、全て負う
 プロフェッショナルは、自分の仕事に関しては全ての権限を持ち、同時に全ての責任を負っているということである。簡潔に言うならば、プロフェッショナルは仕事において、他人をアテにしてはならないという掟である。プロフェッショナルの仕事は、膨大な知識と高度な技術が必要である。しかも結果責任は極めて重い。自分の判断のたった一つのミスがクライアントに重大なダメージを与えてしまうことも珍しくない。自らを厳しく律して最善の努力をし、結果に対して全ての責任を負う覚悟があるかどうか、この自己完結性が、プロフェッショナルのプロフェッショナルたる所以である。
 
4.誘惑と不調和
  また、波頭氏は、近年社会に大きなダメージを与えるような事件をプロフェッショナル達が次々に引き起こしてしまうようになったことについて、「…誘惑条件に満ちた環境の中にありながらもこれまで事件の発生には至らないでいた均衡状態が崩れてしまうような何らかのトリガーが社会に発生してきたと考えるべきである。重荷に耐えながらも不正に手を染めることなく頑張っていたプロフェッショナルの背中を一押ししてしまう動機が社会的に生じてきたということである。」とし、プロフェッショナルがその職責を全うしにくい状況(トリガー要素)について次のように解説を加えている。
  「…この動機を生じさせたトリガー要素が何かというと、それは“経済”である。経済的動機がトリガーとなって、誘惑と公益の危うい均衡が崩れてしまったのである。
そもそも世の中には様々な価値がある。文化や芸術の価値、信仰や宗教の価値、家族愛や友情や恋愛の価値、人格や教養の価値等々、経済的な価値以外にも多様な価値が存在するのが人間の社会の自然な姿である。経済以外の価値が社会にとって極めて重要で不可欠なものであることは日本以外の全ての国家、社会においては議論するまでもない常識であり真理である。実際、経済の価値よりも優先すべき価値を持たない社会は日本以外には見当たらない。…」
  この点について、故熊野実夫先生も約40年前に次のように述べている。「…人間はいまではかつてもっていた、人間の正しい行動とは何か、善い行いとは何かを判断する基準を失っているように思われる。現代の人間にとってつかえるべき唯一の神はマモンの神。すなわち「それは儲かるか」が唯一の判断基準となっている。現代人の唯一の信仰の対象たるマモンの神、そしてその教会の儀式、典礼を掌る「姿なき司祭」である会計。そこでは人間の行動はすべて「それは儲かるか」という判断基準にのっとって、姿なき司祭−会計の仮借なきテストをうけ、マモンの神のよしとするもののみが生存権をうる。…」。とし、マモンの神を崇拝する日本企業の危うい企業行動を憂いている。
 波頭氏は、続ける。
「…経済以外の価値が意識から欠落してしまった人々が住む現代の日本社会、即ち経済合理性最優先社会において、耐震構造偽装事件やライブドア粉飾決算事件というプロフェッショナルが引き起こした事件が発生したのであるが、このような事件が発生してしまうのはある意味当然とも言える。
そもそもプロフェッショナルの仕事は金儲けを目的にするものではないし、プロフェッショナリズムは経済合理性とは調和しない考え方である。クライアントの利益に貢献し公益への奉仕をすること自体が仕事の目的であって、自分が得る報酬を極大化することはプロフェッショナル・コードにも仕事のルールにも含まれていない。プロフェッショナルとは、正義や社会奉仕や自己研鑽といった非経済的な価値が尊重される社会の中でこそ輝く職業なのである。
  プロフェッショナルは元々何をしても誰にも分からない誘惑に満ちた危険な職業でありながら、公益への貢献や、社会からの敬意や自尊の念といった精神的充足に基づいた自己規律によって不正からわが身を劃(かく)して仕事をしていくのが本来の姿である。
しかし、そうした精神的価値、非経済的価値が人々の意識から薄らいでしまった社会の中では、プロフェッショナル一人が本分を守ろうと頑張り抜こうとしても根本的に無理がある。…」と述べ、現在の日本ではプロフェッショナリズムが正しい姿では成立しにくくなってきているので、その弊害は当然一級建築士や公認会計士だけではなく医者にも弁護士にも及んでいるという。まさにプロフェッショナリズムと経済の葛藤状態であると表現する。
 
5.答えはシンプル
  このようにプロフェッショナルが生き辛い状況が社会にあるとしても、波頭氏はあきらめない。
  「…しかしだからと言って、経済万能、利益至上主義の濁流にプロフェッショナル達が飲み込まれ、そのまま流されてよいわけでは決してない。プロフェッショナルによる高度で公正なサービスが今後益々必要とされるようになるのも紛れもない現実である。一つの不適切な行為が波及する対象が広範に広がっているからこそ、そして経済活動の規模や活動主体のスケールがかつてないほどに巨大化しているからこそ、プロフェッショナルのミスや不正は決してあってはならないのである。…」とし、経済的価値ばかりが幅を利かせる社会のしくみの中で、経済的効率性から外れた掟を課せられ、非経済的な報酬を糧として仕事をしなければならないプロフェッショナル達は、一体いかにすれば公益への貢献という使命を果たし、自尊の念を持って自由に生きていくことができるのか?について、その再生の道を説く。
  「…その答えは明快かつシンプルである。答えは、「プロフェッショナルはさらに自らの職能を磨き、プロフェッショナルの掟を一層厳しく守るのみ」というものである。
 現行の社会が価値観においても経済のしくみにおいても健全なプロフェッショナリズムとは不整合が大きいとは言っても、プロフェッショナルの使命と掟を捨てて職能と特権を安易に不正使用してしまうと、社会は大混乱に陥り、悲惨な状況しか招かない。
 「プロフェッショナルは、弱音を吐かず、プロフェッショナリズムを全うするしか人生とキャリアの成功はない。プロフェッショナリズムとは調和しづらい経済至上主義の社会になったからこそ、プロフェッショナリズムをさらに徹底すること、即ち益々職能を磨き、一層厳しく掟を守ることがプロフェッショナル達のこれから進むべき正しい道なのである。これが、唯一の答えである。」と説いている。
 この点について、故熊野実夫先生は、会計士の生き方に焦点を当て次のように述べている。「…それは、会計の論理の赴くところ、たとえわが身を破滅させることがあろうとも、その論理を突き通してみようとする生き方であろう。それはまた、わが胸の奥深く持っている理想なり正義を、この世の中に、会計を通じて実現していこうとする努力の生き方とも言えよう。仄暗い胸の中に秘めた理想と正義を、冷酷な会計の論理を歪めることなく貫き通すことによって、この世の中に実現するための格闘こそ、正しい意味での「会計によっての勝負」であって、会計が単に糊口を塗するために用いられたり、ましていわんや、社会的地位を昇る梯子として用いられる時、それでは会計によって勝負したことにはならない。…」と説く。
 両氏とも、マモンの神が支配する経済至上主義社会、日本にあって、プロフェッショナルたる公認会計士は、挫けることなくその使命を胸に職務を全うすべしと説いている。
 
6.結びにかえて
 波頭氏の説くプロフェッショナル論を現在の監査法人というファームでチームとして働く公認会計士にそのまま当てはめることは難しいことなのかもしれない。
 しかし、この点についても故熊野実夫先生は、次のように述べられている。
 「…一つの途は監査人が団結することによって「力」を獲得しようという、力の論理を信じる立場である。しかしこの力の論理をエスカレートさせていけば行きつく先は政府の手による監査以外にあるまい。それにこの力の論理にはキェルケゴールの指摘する次のような危険がある。
 『団結の数によって強めはするが、しかしこのことこそ倫理的には一種の弱体化なのである。ひとりひとりの個人が、全世界を敵にまわしてもびくともしない倫理的な態度を自分自身のなかに獲得したとき、そのときはじめて真に結合するということが言えるのであって、そうでなくて、ひとりひとりでは弱い人間がいくら結合したところで、子供同士が結婚するのと同じように醜く、かつ有害なものとなるだけであろう』
 全監査人が、全世界を敵にまわしてもびくともしない倫理的な態度を自分自身のなかに獲得しうるか、それとも政府の手による監査に委ねるか、監査人に課せられた選択は重くて厳しいものがある。」と。
 つまるところ、個々の公認会計士が「プロフェッショナル」としての意識、マインドを持たなければ、公認会計士業は公益への貢献を離れ、政府の手に渡るか、ビジネスとしての“監査屋”に成り下がってしまう危険性を両氏は示唆いているのではないだろうか?
 「公認会計士」という資格が、単に会計に関する専門知識を有する資格ではなく、「プロフェッショナル」としての資格であるならば、「公認会計士」は、社会への貢献という使命感とともに、その行動規範と価値基準を備え、実践するものでなければならない。一人ひとりの「プロフェッショナル」としての自覚を再確認したい。